※この物語はフィクションです。
僕がその老人の家に行ったのは、去年の夏だった。
父の叔父である広志老人とは一昨年の祖父の葬儀の時に久しぶりに再会し、その時に模型の話で盛り上がったことがきっかけで仲良くなった。一度遊びに来いと言われていたことを実行に移したのがその夏だった。
蝉の声の騒がしい夏だった。
僕は、背負ったリュックと身体の間にじっとりと汗をかきながら、叔父の家に向かう坂道を登った。顔を伝う汗をぬぐって、広志老人の家の玄関ベルを鳴らすと奥から「どうぞ」としわがれた声が聞こえた。
玄関の引き戸をガラリと開けた僕の前に現れたのは、予想に反して色白で背の低いロボットだった。ソフトバンクが発売したロボット。いわゆる”Pepper”だ。
無機質だが丸みのあるその筐体を僕の方に近づけると、Pepperは僕に問いかけた。
「どちら様ですか?」
僕があまりにも意外な展開にきょとんとしているところ、Pepperの後ろから当の本人が現れた。
Pepperは振り返ると、「広志さん、こんにちは」と喋りかけた。
「拓美、こちらは翔太くん。私の孫みたいなもんだ」
広志老人はPepperのことを「拓美(たくみ)」と呼んだ。
「Pepperがいるとは思いませんでした」
僕は正直な感想を述べると、老人はニヤリと笑って言った。
「番犬くらいにはなるよ」
Pepperに向かい合うと僕は「翔太です」と改めて自己紹介した。
「ショウタさん、ですね。初めまして、タクミです」
タクミと名乗ったPepperは、大げさな手振りで私を歓迎した。
いわゆる独居老人である広志老人の家には、数多くの模型が飾られていた。
全長1mを超える戦艦長門があるかと思えば、兵士の日常を切り取ったかのような小型のジオラマがあったり、書棚にはモデルやメーカーごとに微妙にディティールの違うティーガー戦車が並んでいた。
僕もいわゆるオタクと呼ばれる部類の人種であったため、艦これやガルパンで得た知識もあり、広志老人とのプラモデルの話は大いに弾んだ。
麦茶のグラスを持ち上げると、落ちた結露の水が年代物の座卓の上に輪になって残った。
「そういえば、さっきPepperのことをタクミって呼んでましたね」
「ん? あぁ。息子の名前だ。今はいない」
「……」
「そんな珍しいことじゃない。交通事故だよ。嫁さんと一緒にな」
「そうだったんですか」
「今度の息子は優秀だよ。何がって、人の名前をよく覚えられる。記憶力は抜群だ。以前飼ってた猫は模型を散々壊しやがったが、Pepperならそんな心配もないしな」
老人はそう言って、呵々と笑った。
僕は、その笑いにつられて笑顔になったが、心の中には夕立の前の空気のような、何とも言えないモヤモヤとした感情が立ち上っていた。
8畳の部屋の6畳分を丸々第2次世界大戦の戦車戦のジオラマにした、壮大な作品に感嘆した後、僕は老人の家を後にした。
それから1年。
また暑い夏がやってきた。
僕は就職活動がうまくいかず、一人悶々とする日々を過ごしていた。
そんな時、広志老人が亡くなったという報が僕の元に届いた。
僕は汗をかきながら、またあの坂道を登っていた。
今年は蝉の鳴き声のしない夏だった。
呼び鈴を鳴らして引き戸を開けると、喪服を着た父が出てきて僕を老人の置かれた部屋へ案内した。
線香の香りが立ちのぼる部屋の中、老人は床についてた。
合掌すると、僕は広志老人との思い出を心に浮かべた。
あの力作の6畳のジオラマ。
広志老人がいなくなると、この家に住む者もいなくなる。処分されてしまうのだろうか。僕が引き取りたくても、一人暮らしの部屋にとても置けるものではない。
処分される前に、せめて写真でも撮っておきたいと思い、僕は部屋へ向かった。
部屋へ向かう途中、僕は拓美と出会った。
「ショウタさん、こんにちは。今日はどうされましたか?」
Pepperは、1年前に会った僕の顔も覚えていた。老人が言っていたように記憶力は抜群だ。
「広志さん、亡くなったんだね」
Pepperに言っても理解できない言葉だが、なぜか言わずにいられなかった。
「何を言っているんですか? よくわかりませんでした」
やはりPepperには通じない言葉か。
「いや、何でもない」
僕は、ジオラマの置かれた部屋に向かった。拓美も僕を追ってついてきた。
部屋の引き戸を開けると、薄く埃の積もってはいるが、壮観なジオラマはまだそこにあった。
戦車の轍の加工から、兵士の服の細かいところまで彩色されたところを丹念に眺めた後、僕はスマホで写真を撮ろうと構えた。
すると後ろからPepperの声が聞こえた。
「どちら様ですか?」
振り返ったが、そこには誰もいなかった。
訝しげにPepperを見ると、Pepperはジオラマの方に向かって進み、手を上にあげ喜んだような姿勢を取って、こう言った。
「あ、広志さん、こんにちは」
僕は、誰もいるはずのないジオラマの上の空間を見つめるPepperの姿と、その空間にいるはずの老人の顔を思い浮かべて、目を潤ませながらも背筋に汗をかいた。
(文:みやび☆りゅう)