みやび☆りゅうの「わたくしスタイル」

エンタメ系Webライター兼、新米パパの雅龍(みやび☆りゅう)がお届けする、様々なこと。

【ソニーに垣間見る】教育と学習の狭間で、何を得て何を失うのか。

日本という国は素晴らしい。教育を受ける権利で学校で教育を受けられる。

日本という国は酷い。義務教育という義務で学校で教育を受けさせられる。

 

前者の、日本は素晴らしいと思ってらっしゃる方が大半だと思うが、後者の面もあながち否定できず、私はどちらの面もあると考えている。

日本の教育に感じる矛盾感である。

それは教育というのは本質的に良いことと思う人が多いから日本は素晴らしい論につながるのであり、そう思わない人もいるということだ。

なぜここまで捉え方が変わってしまうのだろうと私は気になっていたが、その答えは”教育”という言葉の持つ意味とイメージにあった。

日本人の多くの方の脳内では、2つの意味が融合してしまっているのだ。

 その2つの意味とは、「教育」と「学習」だ。

そのことに気づいてから私は教育という言葉が嫌いになり、なるべく使わないようにしている。

 

では、「教育」と「学習」の違いとはなんだろう。

 

 教育と学習は全く異なる概念だ

 

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「教育」=勉強させる。

「学習」=勉強する。

そういう意味だと思っている人が大多数ではないだろうか。

しかし、教育と学習は本来全く異なる意味合いのものだ。

今の日本では多くの人が誤解してしまっている。

 

「学習」というのは自発的であろうとなかろうと、知識を得ること。

「教育」というのは教え育てること。

読んで字のごとくだが。「教育」には知識を与える側の意図しか含まれていない言葉だ。

教育をする側が与える知識というのは、教育される者が所属するコミュニティにとって有益なこと。そのコミュニティとは家庭であり、学校であり、社会である。

つまり、教育する側がその者をコミュニティ内で扱いやすく有益な人間に育てることが教育なのである。そこには倫理観や道徳も必要なく、常識はコミュニティの中での常識しかない。もちろん科学的な知識や、数学的な思考能力は必ずしも必要とされない。

必要なのは従順な者で、テストという評価基準の上で高成績を残せる者だ。

 

本人の自発的な「学習」は、コミュニティの必要とするべき知識でなかった場合には切り捨てられ、行き過ぎればその人間自体の資質がコミュニティに必要ない存在とされてしまう。 

極論を言えば、指導者の言うことを聴く高性能なロボットを作るのが「教育」なのである。

 

そのことに気づいた時から、私は教育という言葉が嫌いになった。

私は人生という学習環境の中で、教育を受けると言うことは学習ではないということに気づいたのだ。

 

なぜ教育と学習のイメージが似通ってしまったのか?

 

先日、漫画家の江川達也さんがFacebookで以下のような投稿を上げていた。

 

www.facebook.com

 

この記事をお読みいただいて得る感想は、人それぞれ違うと思うし、また最後までお読みいただかないとわからないのだが、江川さんの意見という訳ではなくリンク先の記事を読んだ上でアメリカでの感覚を江川さんなりに意訳して語った内容だ。

この記事の最後には「よく知らんけど」と、ようやく江川さん本人の言葉が出てくる。

他者の思考パターンを想像するというのは物語を作る人であればよく行う行為だろう。 

どういう価値観で社会を見るか、ということに対しての問いである。

 

戦後の日本、焼け野原から日本を復興した人々の原動力、今は持たざる者が新しい世界を切り開くために国民の多数のレベルを引き上げる必要があった。

皆に一定の教育を行い、国民の知的レベルを引き上げることで高度経済成長をもたらし、アジアの敗戦国から日本は他に類を見ない劇的な復興を遂げた。

素晴らしい成功体験を得たのだ。

それは同時に多数のプロ労働者を生み出した。

そう、知的レベルの上がった国民の多くはプロ労働者として「教育」されたのだ。

団塊の世代は日本社会の復興のために教育された兵隊であり、知性はあるが企業に従順な人間として教育されることが、社会において学習すべき内容であったのだ。

そういう時代だったのだ。 

 

日本の復興を担った先達たちを責めているのではない。その教育は素晴らしい成果を得て日本はアジアの島国の敗戦国でありながら先進国の一つに数えられるようになった。

ただ、その中で「教育」と「学習」の意味が混同され誤解されるようになったために、労働者を生み出すスキームは発達したが、イノベーターやアントレプレナーを育てる土壌はほとんど醸成されなかった。

 

他人から管理されることは教えられても、他人を管理する術は学校では教えてくれない。

 

 テストで測れる全体平均点ばかりが学校などコミュニティ上で重視され、自発的な学習、例えば一点に傾倒した専門的な知識を得ようとして集中しその他の知識をないがしろにするような、学校に馴染もうとしないものは排除される。

大学になってようやく専門分野の勉強が始められるが、遅すぎると言ってもいい。

また、高校でそのような工業や商業の学校に行くという手段もないわけではないが、日本ではそれらの学校は一段低く見られていることは周知の事実であろう。

 

大学に入るためには普通科の学校に通う人が大半で、その学校では科目全体での平均的な成績の良さが良しとされるため、特性が特化した人は必然的にレベルの低い環境に置かれることになり、一点突破的に突き抜けた人材が輩出されることのない社会となってしまった。

そのことが現在において様々な弊害をもたらし、才能ある人々も窮屈な学校生活に甘んじなければならず、ともすれば落伍者の枠に入れてしまっているのではないかと思われる。

 

義務教育は、一定の囲いの中で羊を飼うことで、先生は牧羊犬だ。

羊の中に牛も狼もカンガルーも混じっていると面倒なのだ。

 

私の個人的な意見だが、先生という職業に就く人に対してあまりいい印象がない。

ほとんどの人が社会人経験なく、大学を出たばかりの浅はかな知識しか持たないまま教育者のコミュニティの中で暮らすという偏った生活の中で、生徒たちに学習指導以外の生活指導も行えるのだろうか?

確かに部活の顧問や残業、持ち帰り仕事など先生たちもご苦労が多いのは知っている。

その上で、そんな激務の中社会人として成長するための読書なり、異業種交流なり、人生経験を得るための経験ができているのだろうか? 新しい知見を得られるのだろうか?

 

静かに衰退する日本

アドラー心理学でよく言われることだが、「馬を水飲み場に連れて行くことはできるが、馬に水を飲ませることはできない」という言葉がある。

これこそが「教育」と「学習」の2つをよく表していると思う。

人を導くことと、その人が学ぶこととは別のことだ。

自発的意思のない「強制」や「矯正」教育からは、画一的な、感情に矛盾を抱えた人間が生まれ、本心と社会の軋轢の中で苦しんでしまう。

現代日本で鬱になる構図というのは、そう言った構造が少なからず影響しているではないかとすら思ってしまうくらいだ。

 

ゆとり教育をやめるやめないというのも傲慢な議論だ。

使いやすい労働者、レベルの高い労働者を作れなくなったから、昔のように戻そうと言っているのか?と私は思ってしまう。

学校で与えられる教育的知識が減るということは、それぞれの人の学習に対する資質が試されるということで、自発的に経済活動を学び行動できるものだけが生き残る社会になる。

そもそも労働者として画一的な人材を育成しようとしていることが、社畜を生み、ブラック企業を継続させるのだ。

 

日本でも飛び級なり学業資質面での特別学級を導入するなりして、学べる者はより学べる環境に置くことが必要なのではないか。小学生が大学に入っても良いくらいだ。

年齢が同じ者をまとめて教育するという教育方法をやめ、本人の学習能力に合わせた編成をすることで切磋琢磨する環境を整えることこそ、今日本にとって必要なのだと思う。

できる者ができることをより良く学べる環境に置く。

当然そのためには教師もそれを見極め指導する能力を学習しなければいけない。

 

お金を稼ぐという手段を雇用者目線でしか伝えない日本ではなく、起業家や経営者としてどういったビジョンを持つべきかという事を学べる環境を若いうちから作ることも必要だ。

これは教師自身が持っていない視点である。教師を辞めて起業する人が果たして何人いるだろう?

 

今後の日本を考える上で良いインタビュー記事があった。

このソニーコンピュータエンタテインメント元会長 丸山茂雄さんのインタビューを読んで、つくづく現代日本は勉強の出来る秀才という意味での「凡才」が天下を取ってしまった時代なのだと思った。

business.nikkeibp.co.jp

(全文をお読みいただくには日経ID登録が必要です)

 

ソニーは「ソニーの社長をやりたい人間が社長になった時点で終わった」と言い切る丸山氏の言葉はなぜだかとても心に響く。

 

 

正直に言おう。

私も学生時代にこの「教育」を取り巻く状況に気づけば良かった。

だが人に従うのは責任もなく、自分の頭も使わないので楽なのだ。

私もその状況に甘んじてしまった。

自分の頭を使って考えられるようになった時期が遅かったなと思っている。

今となれば後悔甚だしいが、それなりに自由には生きてきたので企業のレールに乗ってしまった同級生たちに比べれば良かったと思う。

少なくとも自分で考えられる時間はもらえた。

 

 

 

これまでの日本の経済成長を支えてくれた先達には感謝を示した上で、旧来の価値観しかわからない官僚や企業人の押し付ける教育論に惑わされず、これからの子供達にはもっと学習において自由でいて欲しい。

学びたいと思うこと、知りたいと思うことに真摯に向かいあって行って欲しいと思う。

せっかくインターネットというものが発達したのだ。先生は現場にいなくとも、その知識は拡げられる。

そして労働者として「教育」されることだけではなく、起業家や研究者として「学習」することに気づいて欲しい。

 

我々日本人がこれから迎える緩やかな衰退を少しでも軽減するためには、可能性を担う人材が育ってくれることしかないのではないか。 

日本が現代の繁栄を得た方法論はもう通用しないということに気づき、「教育」ではなく「学習」を促し強化する社会を構成することで、 次世代の人材の成長を促していくべきなのだろう。

 

 

(りゅう☆みやび)

 

 

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