みやび☆りゅうの「わたくしスタイル」

エンタメ系Webライター兼、新米パパの雅龍(みやび☆りゅう)がお届けする、様々なこと。

自分の生き方を恥じないために、私たちができるたったひとつの方法

昨晩、熊本で大きな地震があった。
現在のところ9名の方が亡くなり、多くの方が重軽傷を負ったようだ。
お亡くなりになった方のご冥福をお祈りするとともに、大事な方を亡くした親族の方々にお悔やみを申し上げたい。
またかろうじて難を逃れた方へ。多くの余震が続いています。倒壊の恐れのある建物への接近は余程の事情がない限りお避け下さい。

 

本日のこのブログのネタを考えている最中に起こった災害で、地震をブログに取り上げることは不幸をネタにするようで自分的に不謹慎な気もして、でも地震以外の笑いを誘うようなネタを上げるのはさらに不謹慎な気がしたため、結局何も書けずにいた。
ひとしきり考えて、一巡した上で、この内容となった。
もしご不快に思われる方がいらっしゃるなら、申し訳ない。

 

 

私は死の報と接する時に、また自分自身が死を考える時に、数年前からこの言葉を必ず思い出すようになった。

 

「私たちはみな、最後には、途中で死にます」

 

このフレーズが、心に深く残っている。

スティーブ・ジョブズの妹さんのジョブズの追悼式で捧げた弔辞である。
もう少し長く引用するならば

私たちはみな、最後には、途中で死にます。
物語の途中で。
たくさんの物語の途中で。

妹からスティーブ・ジョブスへの弔辞 

 

または、もう少し違う訳し方ならば

私たちもみな —結局最後は—  突然に死ぬのです。
ストーリーの途中で。
そして死んだ人の数だけストーリーは無数にあります。

Long Tail World: スティーブ・ジョブズの妹モナ・シンプソンの追悼演説:A Sister’s Eulogy for Steve Jobs

 

 

現代に生きる人は、多くのドラマや映画、本、アニメ、様々なコンテンツに触れて生きていると思う。
その中で語られるストーリーには、すべて終わりがあり、それはハッピーエンドにしろバッドエンドにしろ、主人公の死に対して何らかの意味と終焉感を描いている。

 

しかし、現実は違う。

 

どんなにカリスマ的な人物でも、死は何かの途中に訪れるのだ。
それは壮大な夢の途中かも知れないし、何か大きな仕事を成し遂げた後かも知れない。
だが死の瞬間は通勤の途中、トイレの途中、お風呂の途中、セックスの途中、闘病している病院で治療を受けている途中。
幕切れにちょうどいいタイミングではなく、何らか生活の途中に死はやってくるのだ。

どんな時でも死は、生の隣にあり、それは突然やってくる。

その思いを、ギュッと凝縮して自分に思い出させてくれるのが先ほどの弔辞の一節。
「私たちはみな、最後には、途中で死にます」だ。

 

最近の日本人は教育方法の弊害か、テストのように物事を正解か不正解かの二択で見てしまっているきらいがある。
そして、不正解な行動を行ったことは恥だと思ってしまう方が多い。
失敗を恐れ遠ざけたいがために、失敗した者を許さない、失敗した者を笑うような風潮がある。
だが、失敗したということが成功を目指した途中で起きたのであれば、それはその方法に誤りがあっただけで、成功を目指したことまで否定するべきことではない。


「私たちはみな、最後には、途中で死にます」
そう、どんな英雄の最期も死であり、何かの途中だ。
ならば、何を恐れることがあろう。
生きているならば
愛する人たちを大事にして生きよう。
自分のしたいことがあるならば、許される限り目指してみよう。
なにかを伝えたいならば、最大限伝える努力をしよう。
たとえそれが道半ばで終わるとしても、成しえなかったことは恥ではない。
皆、なにかの途中で死ぬのだ。当たり前のことなのだ。

自分が思い、感じることをやめてはいけない。
もし、何かを思い、感じた時に人間は成長する。
それは、一生続く。
そして、それも必ず途中で終わる。

正しいか正しくないかを恐れるのではなく、自分の心と向き合ってまっすぐ進むのであれば、道半ばで倒れようと何を恥じることがあろう。
一番恐れるべきことは、そう言った気持ちを持たぬまま、正しくないことをするのを恐れ、何もせず、日々を大切にしないで生きてしまうことだ。

 

人間なのだからたまに怠けることもあろう、失敗することもあろう。
でも、日々を大切に生きようと思うことは忘れてはいけないと思う。
訪れる死を受け入れるために。

 

 

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